出発の日の朝は今や住み慣れた常滑の古いワンルームにいつもと変わらず訪れた。
窓の外では慌ただしく出社してゆく同僚のものと思わしきヒールの音が響いている。
この日を待ち焦がれて五月の大型連休の仕事を乗り切ったのだ。
世間にとっての連休の終わりが、即ち我が休暇の始まりなのである。
いつも本を片手に旅行するのが好きなのだが、今回の旅の供には空港の書店で買ったエドワード・ルトワックの話題の著書『戦争にチャンスを与えよ』を選んだ。
昨秋以来の朱鞠内湖でのイトウ釣行。
事前にFさんと予定を合わせ、五月の解禁直後に六日間の旅程を組んだ。
前回の春に訪れた際は六月だったので、この時期を選んだのは初めてである。
Fさんは昨年、同じ時期にだいぶ良い思いをしてすっかり味を占めたらしかった。
朱鞠内湖は数日前に全面解氷済みで既に渡船も再開しているようだ。
高鳴る期待を抑えつつ、搭乗便の手続きを終えた。
まさかこの先、想像を超える魚と邂逅することになるとはこの時は知る由もなかった。
それにしても名古屋発の便は相変わらず搭乗率がすこぶる悪い。
特に旭川便は何故飛ばしているのか不思議なくらいだ。
もっとも空席が多いほうがフライト中は寛げるので、こちらとしては大いに助かるのではあるが。
しかし、こんな調子ではそのうち航空会社が路線を廃止にするのではあるまいか。
そんなことを思っていたら案の定、数年後には夏季のみの季節運航便になってしまった。
そんな搭乗率とは裏腹にフライトはすこぶる順調で、予定通り昼過ぎには旭川空港へ到着した。
機長からのアナウンスによれば旭川の気温は摂氏七度。
Fさんはひと足早く東京からの便で到着しているはずだ。
手荷物返却場から到着ロビーに出て、すぐに思わしき人影を見つけることが出来た。
この寒空の下、短パンで日焼けした脚を晒している人は他にはいないだろうから間違えようがない。
*
朱鞠内湖へは旭川からさらに北へ約百キロメートルを走破する必要がある。
毎回通過する道央自動車道の士別剣淵料金所は、日本最北のインターチェンジなのだ。
湖畔に辿り着いたのは、道北の短い日が既に傾き始めた午後四時前だった。
ロッジに到着後、レストランでミーティング中のNakanoさんに二人で挨拶を済ませる。
車から荷物を運ぶ際には、今後お世話になることになるMatsuoさんが入り口のドアを開けて待っていてくれた。
部屋に荷物を置いてからすぐに、二人でロッジ下の前浜で釣りをしてみた。
半年ぶりのファーストキャストの印象はあまりよく憶えていない。
水温計が示した表層水温は約四度。
五月とはいえ、道北の空気は頬を刺すように冷たい。
当時はこんな水温で魚が釣れるのかと思ったものだった。
しかし、逆に魚の活性は高い。
日が山の稜線に完全に落ちかけた頃、右手の方にいた先客の釣り人がアメマスを釣っていた。
Fさんも小さなアメマスを一匹釣ったようだ。
あいにく僕に釣果は無く、この日は早々に撤退となった。
朱鞠内で最初の夕食では、早速ロッジで定番のダッチオーブンが供された。
ここの料理は僕にとってレークハウス宿泊の最大の楽しみである、と言っても過言ではない。
勿論イトウを釣る事以外で、なのだが。
そんなことを考えながら、Fさんとサッポロクラシックの生ビールで乾杯をする。
まもなく、フェリーで苫小牧に上陸したFさんの友人あり釣り名人でもあるMさんが到着するそうで、今回の釣行を共にしてくれることになっていた。
翌朝の渡船は午前六時に前浜を出る。
普段は仕事のための辟易するような早起きも、明日からは心踊りそうである。