“何者であれ、アイヌでは狩漁が不得手だったり獲物が少なかったりする人のことを、「イペサク」という。”
かの有名な「オーパ!」の冒頭文を盛大に模倣してみたわけですが、あなたは誰よりも念入りに釣りの準備をしたり道具にこだわって吟味したりしているにも関わらず、釣果がついてこずに魚と巡り会えない人と出会ったことがあるでしょうか。
何処へ行っても何をやっても、なかなか魚が釣れない。
私の知人にもそんな釣師がひとりいます。
その人は毎年、新潟から小樽までフェリーに乗って北海道へ出かけて行って、車に積んだゴムボートをせっせと準備しては湖へと繰り出していきます。
道具にもこだわりがあるようで細部の違いを意識したり、廃盤になった古いルアーを求めて僻地の釣具店から探し出してきたりしているようです。
それなのに、とにかく毎回釣果に恵まれません。
決して特段に釣りが下手なわけではない。
(かといって上手なわけでもないかもしれないが、少なくとも私よりは上手いと思う)
その釣れない才能とでもいうべきものは、思わず目を見張るところがあります。
毎年そのような状況ですから、いつしかその人は「イペサク」の異名を与えられてしまいました。
今年はどうだったのかというと、最初に訪れた阿寒湖の大島では例の如くライズもヒットも凄く少なく、強風の中で粘っても釣れない才能を存分に発揮したそうです。
しかし、その後に行った朱鞠内湖では六十センチくらいのイトウを数匹釣ることができたと聞きました。
そして、やはり国産アワビを貼ったスプーンを使ったおかげだとか、釣果報告とともに嬉しそうな考察が届きます。
実はただの偶然で、たまたま投げたそのスプーンにやる気のある魚が食らいついただけかもしれません。
おそらく中国産や豪州産のアワビシートでも結果は同じだったでしょう。
魚にはアワビの真珠層の模様で産地の違いなどわからないだろうし、第一に朱鞠内のイトウは海産のアワビを目にする機会なんてないはずです。
ついでにいうと、やたら道具にこだわるというのは、釣具メーカーの戦略に踊らされているようにも思えてしまいます。
さらにケチをつけるなら、六十センチという大きさはイトウとしてはあまり大きくありません。
私にとっては釣ってギリギリ満足できるかどうかのサイズですね。
しかし彼にとってその一匹の価値は、決して大きさだけでは計れないものだったと思うのです。
というのも彼の愉しみは我々とは少し異なり、魚を釣ることそのものよりも、その過程や付随行為にある気がしてならないからです。
まず釣りの準備段階を重要視し、あれこれ考えては実践してみるのを好む傾向がみられます。
今回は自分で考えてコレだと見込んだアワビ貼りのスプーンで実際にイトウが釣れたのですから、たとえ五十センチだとしても、ただなんとなく選んだルアーで釣れてしまった大物よりは感動も一入なのでしょう。
そして、道中ではクラフトビールを堪能するためにわざわざ北見で宿泊をして、帰りは留萌に寄って寿司を食べていこうかなど、計画を練ることに愉しみを見出しているようなのです。
釣りも含めてトータルで楽しければOKという考え方ですね。
他人の釣果を気にしているのは我々のような外野の者だけで、本人は案外気にせずに過ごしているきらいがあります。
そうやって考えてみると、自身の哲学に沿って釣りを楽しんでいるように思えてきませんか。
こうゆうことは、ある程度精神の成熟している人でなければ実現できないはずです。
そういえば、悪天候や不運に見舞われてもこの人が文句を言っているところを私は見たことがありません。
雨が降ろうと風が吹こうと。
しょっちゅうPEラインをバックラッシュさせて芸術的な鳥の巣を作り上げようと。
挙げ句の果てに、転んで自身の巨体で高級スピニングリールのハンドルを折ろうとも。
いつも黙々と釣りをしている印象です。
それでいて天気が悪くてボートで出船できないときは、諦めて昼寝をしてしまう潔さがある。
考えようによっては柔軟なこの姿勢でもって、釣れない釣りをこれまで長く続けてきたのでしょう。
極め付けとして、旅の終わりには屈斜路湖まで足を運んだと聞きました(釣れないのに)から、私のようなアームチェア・フィッシャーにはその行動力も見習うべきところがあります。
寡黙に自然と向き合ったうえで、仮に魚が釣れなくても満足できる。
これは釣師としては、ある種の悟りの領域にまで達しているのではないでしょうか。
私は思うのです。彼はきっと今のままで釣り人として充分に幸せなのだと。
今年、六十センチのイトウを釣った彼はどれだけの充実感に満たされたことでしょう。
ですから、あなたの近くに似たようなイペサク氏がいたとしても決して馬鹿にしてはなりません。
だってその人は底知れない奥深さと崇高な理念をもった、稀有な釣師なのかもしれないのですから。
大いなる尊敬と少しの笑いを込めて。