北の南限、南の北限。

東京でもひと雨ごとに肌寒さが増すようになった十月の終わり。

僕とFさんの二人は今年最後になるであろう釧路への一泊二日の弾丸釣行を決行した。

あれから二週間で秋も深まりすっかり寒くなった。

まだ色づき始めたばかりだった北地の木々もいよいよ妖艶な色彩を呈するようになる。

いまは十一月。函館駅の湾曲した長大な歩廊を出発した汽車の座席でこれを書いている。

 

本来であれば今秋の北海道釣行は見送るつもりであった。

Fさんはもうひと通りの釣りを遊び尽くして満足してしまっているし、僕は未だに臥薪嘗胆の節約生活から抜け出しきれていないからだ。

それに阿寒湖のニジマスたちはこの数年で釣り人の撒くワカサギを見切るようになり、すっかりスレてしまったという。

どうせたいして釣れもしないなら何日もかけて行くこともないだろう。

しかし、僕らの愉しみは釣りそのものではなかった。

阿寒湖で待ってくれているMOさんと会うことだ。

盟友たちと語らうことが魚を釣る愉悦に勝ることもある。

 

そんなわけで、自身では全然憶えていなかったのだが「ぜひ行きましょう」という僕のひと言でFさんの心は決まったらしい。

僕としてはMOさんと会えるだけで充分だし、勇猛な跳躍で魅せるニジマスとFさんが戯れている姿を眺めていられればそれで満足だったが、一応は道具を用意して行くことにした。

航空券を予約したときの都合で復路が千歳の経由便となり、YS-11以来のプロップ機に乗れることになった元クルーのFさんは、それが最大の楽しみだと年甲斐もなく子供のように無邪気に喜んでいた。

 

釧路空港からはFさんの運転で十一時ちょうどに阿寒湖へ到着した。

渋滞とは無縁の道東の田舎道を快調に飛ばしてきたとはいえ、ここまで予定通りだとさすがに清々しい。

空は晴れているのに束の間、冷たい風が吹いてにわか雨が降ると湖には虹のアーチが現れ高揚感に華を添えた。

これは吉兆だろうか。

湖畔に建つ漁協の小屋の側に車を停めると、ほどなくして地元在住のMOさんがやってきた。

今年も魚に喰わせてやるには勿体ないくらいのワカサギが詰まった発泡スチロールの箱を用意してくれている。

そして各々が手早く準備を整えると、三人揃って今年も恒例の大島へ渡ったのであった。

 

第一級のポイントである大島には今日もすでに先客のフライマンたちの姿があったが、僕らもいつもの場所に腰を落ち着かせることができた。

渡船を降りて釣りを始めてすぐに、僅か一分足らずで“ナマワカ”をしていたFさんの竿が大きくしなった。

ナマワカというのは阿寒湖のフライフィッシャーが頻繁に用いているドライワカサギ、略して“ドラワカ”と呼ばれるフライの存在を知ったFさんが考案した独自釣法である。

そして数年前に僕も試みたものの、面倒なことが嫌いな僕は沖縄でのスルルー釣りの経験からそれをさらに極限まで簡略化してしまった。

こちらの釣法は‟ホンワカ”だ。

その簡素な釣り方がなんだか‟ほんわか”した雰囲気だということでFさんから命名され、以後そう呼ばれるようになっている。

考えてみると僕らのあいだで何かの呼び名を決めるのはいつもFさんだ。

Fujita Stump然り。ウグイキラー然り。イペサク然り。

 

一度はバラしたものの、Fさんは立て続けに錆色のアメマスと大島らしい太ったニジマスを次々と針に掛けている。

予想に反してこれはちょっと出来過ぎではなかろうか。

釣りをしたのは初日の午後と翌日の午前中だけであるが、最盛期ほどではないにしろそれなりに魚の顔を見ることはできたのだ。

「僕は今からドラグをジーって鳴らす六十センチのニジマスを釣ります。」

そう宣言したFさんだったが本当に六十五センチはあろうかというのを釣ってしまった。

しかも二日とも。やっぱり出来過ぎだ。

 

一方のMOさんはお手頃サイズのコイを釣りあげて持ち帰っていった。

職場で東南アジア出身の外国人がコイが好きなので食べたいと言っていたのだという。

我々からしてみればもっと美味い魚類がいくらでもあると思うのだが…。

しかし、そもそも彼らは海水魚をほとんど食べないらしい。

食用魚といえばナマズをはじめとした淡水魚が主で、重要なタンパク質摂取の源だ。

では、メコン川の濁りに抱かれて淡水魚を食べてきた民族が北地の鱒を食べたらどう感じるのだろう。

きっとその美味に感動するのではないか。彼らの味覚を試してみたい。

そんなわけで高い遊漁料を支払っている権利を行使することにした。

阿寒湖では魚種ごとに既定の匹数であれば魚のキープが認められている。

釣りあげたときすでに弱っていてリリース出来なかった一匹を、彼らへの土産に加えて一緒に持ち帰ってもらった。

リリース後の魚の生き死には知る術などないが、トラウトフィッシングを始めてから明確な意思をもってこの美しい魚を絞めたのはこれがはじめての経験だったかもしれない。

MOさんは「謹んで食べるように」と言い聞かせて魚を手渡したそうだ。

 

後日、MOさんから連絡があった。

ミャンマー人とベトナム人により7対1で鯉よりも鱒のほうが美味しいという結果になったのだとか。

しかし、どうやら鯉に一票入れた者がいるようだ。

生まれ故郷の味には勝てないということなのか。

解せぬ。甚だ遺憾である。

 

 

北斗号は徐々に速度を落としはじめている。

まもなく長万部に到着するようだ。

かなやのかにめしを買いにいくために、そろそろ筆を置かねばなるまい。

長万部駅で目にした印象的な一節を今回の随考の題として掲げることにしよう。

 

帰りの渡船が迎えに来る間際、 MOさんが釣りあげた見事なニジマス。

いま思い出してもあの魚は本当に美しかった。

優艶な緋色の煌めきを最後に残して旅は円を閉じた。