今日の目的地はnamako2という場所に決まった。
おそらく前浜からは結構遠かったはずだ。
正直この寒さの中を長時間渡船で風を切ることになるなんて、あまり喜ばしい事態ではない。
そんな事を思いながら今朝も数人の釣り人達と同舟して出航する。
去年、初めてのイトウを釣った浮島の枯れ柳を横目に見ながら、渡船は大きな航跡の弧を描いて加速した。
やがて乗り合わせた釣り人達を各々が望む島や岬へと吐き出し終え、渡船に最後まで残っていた我々も目的地を目指す。
ここで昨日Matsuoさんがnamako2へ行くのを嫌がった理由が分かった。
そこへ向かうには朝霧で視界が悪い中、湖が減水しているため普段は水没している枯れ木や枝が露出した水域を渡船で通り抜けなければならなかったのだから。
なるほどこれでは操船に苦労しそうだ。
船上に飛び込んできた細枝を片手で払いつつ、少し申し訳ない気持ちで上陸した。
上陸地点は急深のカケアガリになっていて、イトウが岸際までルアーを追ってくるのが見える事もあるという。
親切なMさんが僕にそのポイントを譲ってくれた。
そういえば話には聞いていたが、Mさんは本当によく歩く。
藪を漕ぎ、倒木を越えて、あっという間に姿が見えなくなってしまうのだ。
まずは簡単な朝食を済ませ、歯を磨きながら水際に目をやると数匹のワカサギが泳ぐのが目に入った。
これは吉兆である。
すると足元のカケアガリを、大きな魚影がゆっくりと横切って行った。
慌ててルアーをキャストをしたが、しかし喰ってくることはなかった。
だが、間違いない。
イトウはここにいるのだ。
小さなワンドを越えて移動をしつつ、雰囲気の良さそうなポイントを探していく。
昨日とは打って変わり、今日は湖面に波ひとつ立っていないベタ凪だ。
水面を漂う細かい芥が、左から右へ極めてゆっくりと流れているのが分かる。
思い返せばイトウが良く釣れると言われる、強風で波が打ち寄せ岸際に濁りの入ったコンディションでは、僕はまだ釣れた試しがない。
去年、浮島で初めてイトウを釣ったのもこんなベタ凪の日だった。
やがて水際に粘土質の岩盤が広く張り出した箇所を見つけたので、その上に立ってキャストを始めた。
何投目のことだっただろう。
シンキングミノーをスローリトリーブしていると、視界の右端に大きなイトウの背中を捉えた。
僅か三メートルほどの距離だ。
時刻は午前八時三十分を少し回った頃だっただろうか。
既に高く昇った太陽の光を反射して、それは金色に美しく輝いていた。
僕がキャストしている方向は、自分のほぼ正面だ。
それに対してイトウは、キャスト方向にほぼ直角に泳いでくる。
「喰わないか…」
水面とラインの交差角からは、ルアーはまだ少し沖にあるように見え、イトウの進路とは交わらないように思えた。
先刻泳いでいたイトウもルアーに喰ってはこなかったため、見えている魚は釣れないという先入観もあったのだろう。
どうせ釣れないのだから、急いでピックアップして再度キャストするまでもあるまい。
そのままルアーの回収を継続することにした。
やがてその瞬間は唐突に訪れた。
背中を見せて遊弋するイトウが一瞬でダッシュをしたかと思うと、水飛沫を上げてルアーに猛然とアタックしてきたのである。
これまで何度か見てきたライズの如しだ。
その瞬間何が起こったのか、理解をするのに数秒の時間を要した。
だが体は反射的に反応し、右手に握るロッドに加わる未体験の力で我に返る。
イトウの左頬にルアーが張り付いているのが遠目ながらはっきりと認められた。
フッキングに成功したのだ。
昨日の釣りでウェーダーの水漏れを確認していたが、迷わず水に飛び込んだ。
今回の釣行で初めて掛けたイトウである。
しかし、これが最初で最後の当たりになる可能性も十分にあり得るのだ。
イトウは巨体を翻すと、僕の人生の半分くらいの年月は使い込まれたであろう中古リールのドラグを鳴かせながら、凄まじい力でラインを引っ張り出していく。
僕とイトウは寄せては走られの勝負を何度も繰り返した。
あと少しのところでネットインが出来ずに、再び距離を取られてしまう。
数分間、そんな攻防が続いただろうか。
偶然、魚が湖岸の窪みへ寄っていった隙をついて、ようやくネットインすることが出来た。
震える手でFさんにかけた電話で最初に出た言葉は、「やりました」だった。
息が切れ、汗が流れる。
釣りでこんな経験をしたことはこれまでにない。
最後までフッキングしていたのはリアフックだけだった。
やりとりの最中にフロントフックは外れてしまっていたのだ。
後で気づいたのだが、この一号針のフロントフックは魚の強力で使い物にならないほど伸ばされていた。
イトウも長時間のファイトで疲弊したのだろう。
ネットの中で窮屈そうに魚体を曲げて、じっと大人しくしている。
しかし経験の少なさから、いかんせんサイズ感が分からないうえに、この時はまだスケールの持ち合わせもなかった。
昨年釣った五十センチと六十センチの二尾を凌駕する大きさなのは明白である。
いや、むしろ大き過ぎると言えるだろう。
そこでどうしても正確なサイズを計測したく、FさんからMさんに電話を繋ぎ、全長を測ってもらうことにしたのだ。
姿が見えないほど遠くへ移動していたMさんだったが、再び倒木を越え、藪を漕ぎ、急いで戻ってきてくれた。
ありがたい。
「80センチくらいありますかね?」
「いや、もっとでかいよ、これ。メーターいってるんじゃない?」
僕が釣りあげた人生三匹目のイトウは全長九十七センチ。
引っ張って伸ばせば、あと3センチくらいなら増えたかもしれない。
まるで道東の湿原河川に棲息しているイトウかのようで、朱鞠内湖では珍しいほど丸々と太った銀色に輝く魚体には傷ひとつない。
この上なく美しい魚だった。
人生三匹目にしてなんと素晴らしい魚と巡り合ってしまったのだろう。
こんな幸運があるだろうか。
折良く僕からの電話を受けて予定よりも早く出航した特別チャーター便が到着し、Fさんにも写真ではなく実物を見てもらうことができた。
そっとリリースしたイトウは、大物特有のゆったりした余裕のある泳ぎで去った。
ありがとう。さようなら。そして幸運を。
この日は夕マズメにかけて向かい風が吹いたうえ、まるで水族館のイワシを彷彿とさせるようなワカサギの超大群が接岸したことで絶好のコンディションとなった。
皆がそれぞれイトウを釣り上げ、僕にもアメマスとサクラマスが連続でヒットした。
そして残念ながら逃したが、二匹目のイトウも。
こうして夢のような三日目も、夕マズメが終わる前に迎えの渡船が来て終わりを迎えた。
その夜は紋別のNさんがロッジに残していってくれた置土産のシャンパンを三人で開け、祝杯を挙げたのだった。
この記録を書いている今も、あの日の余韻から未だに抜け出せずにいる。
そして知ったのだ。
メーターオーバーのイトウを追う釣り人達の夢に自分もまた魅せられたのだと。
この日巡り合ったイトウを自分の胸に抱いたことを、僕は生涯忘れることはないだろう。