釣りに行かず書斎に籠り、釣りの本ばかり読んでいる状態の釣り人を、アームチェア・フィッシャーマンと呼ぶそうです。
肘掛け椅子に深く腰掛けて、読書に耽る様子が目に浮かぶ秀逸な表現ですね。
まるで、雨の日の釣師のような。
そんな大それたものではありませんが、これは近頃の私を表すのにぴったりの言葉だと思います。
一方で最近読んだ書籍によれば、八〇年代のニューヨークの釣り人は、食べるために魚を釣る者をミート・フィッシャーと称したといいます。
肉ばかり食べる印象のアメリカ人の中にも、ニューヨークカットのサーロインではなく、魚を好む魚食家が一定数いるのでしょうか。
先日、釣りをする大学時代の友人と連絡をとる機会があったのですが、君にはこの言葉が似合いますナ、とこの話をしました。
堅実なる地方公務員である彼は、二艘のフィッシングカヤックを所有しており、子育ての合間に釣りに全く無関心な妻の隙を窺っては、大海原に漕ぎ出して多様な魚を狙っているのです。
先日の獲物は、中深海ジギングで仕留めた見事なアラとムツだったそうで、煮付け、塩焼き、刺身で楽しんだとのことです。
そのときは腕が筋肉痛になったとこぼしていましたが、それは誇るべき疲労だと思います。
そんな友人は、
「帰りがけに湖でバスを釣ったから、俺はハーフだな。HMF(ハーフ・ミート・フィッシャー)。」
だと言っていました。
また、家族に食べさせるために釣っているからFF(ファミリー・フィッシャー)だ、とも。
家族のために魚を釣る。素晴らしいじゃないか。
釣りというものは、魚を釣った本人が幸せなら、それがひとつの理想形といえるはずですから、人それぞれさまざまな形があって然るべきでしょう。
そんなことを考えながら、学生時代には卒業研究の要旨をほっぽり出して釣りに出かけ、共同研究者を困惑させるなど、研究室の同期からは完全に「釣りキチ」扱いされ、自分のためだけに釣りをしていた彼の変化に、何だか感慨深くなったものでした。
すっかり秋を迎えた世間では行動規制が全面解除され、ワクチン接種の普及と渡航制限の緩和に、経済界からは期待の声も上がっているようですが、私は以前と変わらず、我慢の日々が続きそうです。
しかし、こんな情勢の中においても、これまで同様の遠征は出来ないものの、近場の単独釣行ならば大きな支障もなく楽しめるだけでも、実はとても恵まれたことなのかもしれません。
極論釣りを楽しんでいればスタイルは自由だぜ、という親愛なる地方公務員氏の助言を胸に、今暫くはアームチェア・ライフを愉しむことと致しましょうか。