朱鞠内湖ではイトウに遊漁を永続的に楽しむことができるように、遡上河川の魚道を管理したり、シングルバーブレスフックの使用を義務付ける遊漁規則を設けたりするなどの様々な保全活動がおこなわれています。
その中のひとつとしてイトウの放流活動もあります。
最近ではその効果の表れなのか、釣れるイトウの平均的な大きさが以前よりも小型化して、数が増えている旨を過去の記事でも述べました。
朱鞠内湖のイトウ釣りにおいて、釣果として満足できるイトウの大きさはどのくらいだろうか。「おい、君。大きさじゃないんだぞ。」と恰好の良い言葉を吐けたらいいのですが、それは人生で余程たくさんの魚を釣ってきた人か、道の極致に達した[…]
一般に人為的に増殖した生物を自然界に導入する場合、「遺伝的多様性」というのものを考慮したうえで、慎重におこなわなければなりません。
朱鞠内湖におけるイトウの放流は、この点について先行した学術研究に基づいて非常に丁寧に実施されています。
そこでここでは、放流活動の先行研究としておこなわれた朱鞠内湖のイトウの集団的遺伝構造の解析について調べてみました。
ところで私は分子生物学が専門ではなく、大学の授業や読んだ論文で少し齧った程度であるため、内容を完璧には理解できておりません。
部分的に理解が間違っている箇所もあるかと思いますが、どうかご容赦ください。
「遺伝的多様性」とは
生物は同じ種類であっても、地域や集団ごとに異なる遺伝子をもつことが知られています。
これがいわゆる「生物多様性」と呼ばれるもので、「生態系の多様性」および「種の多様性」と合わせた三つの概念で構成されています。
遺伝的多様性は目に見えるものではないため、在来の個体群が存在するにもかかわらず、同種の別個体群から採ってきた個体を放した結果、集団の遺伝子を攪乱してしまうという事象が過去にはよく生じていました。
具体的な例をあげると、ゲンジボタルの移入が有名な話でしょうか。
ゲンジボタルは雄が雌を探す繁殖行動で発光しますが、地域によって発光の周期(間隔)が異なっており、東日本では4秒間隔、西日本では2秒間隔であることが明らかにされました。
しかし、生息数が減ってしまった地域に、同じ種類だからといって別の地域のゲンジボタルを人為的に持ち込んだことで、2秒型と4秒型の雑種が見られるようになってしまったのです。
現在ではより研究が進み、東日本や西日本の中でもさらに複数のグループに分かれていることが、遺伝子分析によって報告されているため、個体群の保全や復元のために生物を移入する際には、この遺伝的多様性を慎重に考慮するべきという草分け的な例となりました。
もちろん魚類のでも特に淡水魚で同様の事象が問題視されており、メダカの放流などは典型的な例といえるでしょう。
集団的遺伝構造の解析とは
朱鞠内湖のイトウは流入河川で孵化し、湖で成長したのち数年に一度産卵のために流入河川に遡上し、産卵後は再び湖に戻ってくるという生活史をもっています。
さて、朱鞠内湖ではイトウの放流活動に先立ち、本湖および流入河川ごとのイトウ個体群の遺伝的集団構造が解析されました。
調査された支流はブトカマベツ川、陰の沢川、泥川、ウツナイ川とあります。
つまり、支流ごとに遡上してくるイトウの遺伝子に違いがあるかどうかを調べたということです。
この遺伝子解析では、イトウの脂鰭を試料としてPCR法でミトコンドリアDNAを分析し、「ハプロタイプ」というものを確認しています。
PCR法。
どこかで聞いたことのあるキーワードですね。
そう、昨今世界を騒がせている例のアレの検査方法として、マスメディアで散々報道されたものです。
これまで分子生物学の一般的な遺伝子解析手法として知られていましたが、私はPCR法が世間で一般的な用語になるとは夢にも思っていませんでした。
PCRは「ポリメラーゼ連鎖反応」の頭文字からきているのですが、おそらく世間で騒いでいた多くの人は知らないのではないでしょうか。
PCR法は専用の機器を用いてこの反応を利用してDNAを増幅するのですが、大学時代にPCRの機器を保有していた研究室の教授曰く、「温めたり冷ましたりできる電子レンジみたいなもの」だそうです。
閑話休題。
ざっくり言うと「親から受け継いでいるDNAの配列に違いがあるかどうか」を調べたのだと思ってください。
朱鞠内湖のイトウの個体群構造
まず、北海道のイトウはこれまでに4つの遺伝的な集団に分けられています。
ここでは便宜的に、A集団・B集団・C集団・D集団と呼ぶことにします。
それぞれの集団の概要は以下の通りです。
■A集団:日本海側の河川で構成
■B集団:太平洋側の河川で構成
■C集団:朱鞠内湖でのみ確認
■D集団:北海道北部およびオホーツク海側の河川で構成
この研究により朱鞠内湖とその支流では、これらのうちD集団以外の3つの集団が存在することが確認されています。
特に朱鞠内湖固有のC集団が確認されたことは、個人的に大変興味深いです。
朱鞠内湖の個体群が湖に陸封されるようになってからはまだ僅か78年程度であり、その短期間で遺伝的集団の分化が進んだとは考えにくいと思います。
すると、もともとこの水系独自の遺伝的集団が存在していたということになるのでしょうか。
さらに、同じ北海道北部で地理的にも近いはずのD集団が確認されていないのも不思議ですね。
これはオホーツク海側への流入河川がないためでしょうか。
そうなると、イトウは海に出ても沿岸域からはあまり移動しないことが推察されます。
朱鞠内湖は戦時中に造成された人造湖であり、それ以前はイトウが降海することも可能であったはずです。
もしかすると、雨竜ダムが完成以前の川が海とつながっていた時期には、4つの集団すべてが遡上してきていた可能性もあるのかもしれません。
支流ごとの遺伝的集団構造
支流の集団解析結果は大変面白いものでした。
湖では3つの集団すべてが混在している一方で、流入河川ごとに遡上する集団が異なるのは興味深いと思います。
■朱鞠内湖:A集団・B集団・C集団が混在
・陰の沢川:A集団のみが遡上
・泥川:B集団のみが遡上
・ウツナイ川:B集団のみが遡上
・ブトカマベツ川:A集団・B集団・C集団が遡上
なお、朱鞠内湖には他にも流入河川が存在するようですが、過去にはイトウが遡上していたものの現在では見られなくなったという支流には、ひょっとするとD集団のイトウが遡上していたかもしれませんね。
また3集団すべてが遡上するブトカマベツ川には、何か環境の違いなどがあるのでしょうか。
朱鞠内湖の放流活動の特徴
これらの研究結果を踏まえて、朱鞠内湖ではイトウが自然産卵している河川には放流をおこなわず、かつては生息していたものの現在では遡上が途絶えてしまった支流にのみ、実験的な放流を続けているとのこと。
また、採卵する親魚はきちんと朱鞠内湖の個体を用いています。
現在では、10年前に放流した支流にイトウが産卵のため遡上してきているのが確認されるようになっているようです。
成果が見られるようになるまでに苦節10年。
保全に関わる多くの人には、釣り人として本当に頭の下がる思いです。
イトウの保全活動と未来
論文では、朱鞠内湖とその流入河川周辺が北海道大学の演習林であることに加え、漁業権の設定や遊漁関係者の環境保全への関心が高まったことにより、イトウの生息に比較的良好な環境が保たれ、高い遺伝的多様性が維持されていると結論付けられています。
少なくなったとはいえ、北海道でイトウが釣れる河川は他にもありますが、私は毎年この朱鞠内湖を訪れてイトウを釣ることが大きな喜びです。
それはゲームフィッシングと希少魚類の保全の両立という、一見すれば矛盾したことを危ういバランスの上で保ち続ける努力により実現していることを、改めて考えさせられました。
この素晴らしい環境を守るために、釣りで湖の島や岬を訪れた際にゴミを拾って帰るくらいのことは続けていく所存です。
私はちょっと惚けたような可愛い顔をしたあの大きな魚が大好きなので、末永くイトウと人が共存できる朱鞠内湖であり続けてほしいと思います。
畑山 誠・下田和孝・水野伸也・川村洋司(2017):朱鞠内湖に生息するイトウParahucho perryiの遺伝的集団構造.北海道水産試験場研究報告 = Scientific reports of Hokkaido Fisheries Research Institutes (92), 29-32.