写真の目的が記録や記念ではなく、他人に見せるためのものになったのはいつからだろうか。
手の中のスマートフォンで過去の釣りの画像データを眺めていると、ふとそんな疑問が湧き上がりました。
「釣りの写真」といえば、当然魚か釣り人が主体となるわけですが、釣った魚を思い切り前に突き出して遠近法により魚を大きく見せる撮影手法は、最早常識といえるほど普及しているといっても過言ではないでしょう。
ここ数年では誰が始めたのか分かりませんが、釣り人がロッドを口に咥えたうえで両腕に魚を持っている写真を撮るのが流行ったのか、釣り雑誌やWEBサイトやSNSでもよく見かけるようになりました。
なかには腕に抱えた大きな獲物の口に、ラインの先のルアーをぶら下げたままそのような写真を撮っている強者もいらっしゃいましたが、魚が突然暴れた時にロッドを口に咥えていては、とても支えきれないのではないかと心配さえしてしまいます。
やっている本人たちは、あれを本当にカッコいいと思っているのでしょうか。
その拍子に運悪くリールが前歯を直撃したりして、1本100万円以上の価値があるとさえいわれる貴重な歯を失うようなことになれば、目も当てられない大惨事です。
ちょっと怖くてできないですね。
また、私もルアーの交換時にスナップを口に咥えることくらいはありますが、大事な道具であるロッドを噛んで歯形をつけるような真似はあまりしたいとは思えません。
まあ、釣りという行為自体がそもそも本人の自己満足に依るところであるのですから、これらの写真を撮っている方たちをとやかく言う権利はないですし、ましてや私のような底辺社畜釣師など論外でしょう。
ただ、これだけは強く言わせていただきたいのですが、私はこういった写真に「不自然さ」を感じざるを得ません。
そしてこのような傾向は、何も釣り業界に限った話ではないのです。
TwitterやInstagramといったSNSを徘徊すれば、アプリで簡単に加工された不自然な写真が氾濫しているでしょう。
人気の撮影スポットでお決まりのポーズを決めた画像を投稿する若い男女たち。
顔のない他人からの「いいね」や共感や羨望を集めることが、ある種のステータスとなった時代。
「インスタ映え」という言葉が生まれ、一部は迷惑行為や社会問題として取り上げられたこともありました。
これらの行動の源泉となっているのは、ひとえに「人に見せたい」という承認欲求だと思われます。
「少しでも良く見せたい」という思いから、試行錯誤して理想的な画像を創り上げるのです。
写真というものを保存する媒体が、一発撮りのフィルムからメモリに記憶され容易に編集可能な画像データへと置き換わった時から、こうなることは運命づけられていたのではないでしょうか。
一部のカメラ愛好家の間では、今でもフィルムカメラを好む人がいるというのは、カメラ初心者の私でも少しはその気持ちがわかるような気がします。
この虚構と虚栄に満ちた現代の一部プラットフォームに、私は強い違和感を感じてしまうのです。
YouTubeで誰かの平凡な日常を綴っただけのV-logというジャンルが、唐突に凄まじい再生数を叩き出すことがあるのは、食傷気味となった人たちの需要を満たしているからなのかもしれませんね。
さて、話を釣りの写真に戻します。
私の手元にある釣りをしている自分や釣った魚を写した写真で、いわゆる自然体と呼べるものは意外なほど少ないです。
自分で撮影したものは勿論のこと、人に頼んで撮ってもらった写真であっても、どこか気取って格好つけたような態度を呈していたり、妙に神妙な顔つきをしたりしてそこに収まっています。
やはり、どこか見栄や虚栄心といった「よく見せたい」という心理が知らずのうちに働いているのでしょうか。
そして気がついたのが、一方でこれは脚色のない素の自分だと思える写真というのは、その多くにおいて自分が知らないうちに誰かが撮ってくれていたものだということです。
つまりカメラを意識していない瞬間ということになります。
私はYouTubeが好きで釣りの動画を視聴することもあるのですが、やはり動画投稿者とは別にカメラマンと編集を専門に担っている人がいるチャンネルは、釣りをしている本人の表情や感情、感動といった魅力がより自然に表れている気がしてなりません。
僭越ながら、私が素敵だと思った動画を投稿されているYouTubeチャンネルを紹介させていただきます。
さらに、過去に私が『Fujita Stumpの奇蹟』というエッセイの題材とした写真も、切株に腰掛ける釣師の後ろ姿を何気なくスマホのカメラで撮影した一枚でした。
釣りの師匠であるFさんは、本人曰く「しょんぼり情けなく座っている後ろ姿」を今もいたく気に入ってくれているようで、先日も紋別の千里眼・Nさんとこの写真の話題で散々盛り上がったと聞きました。
我々の釣りというのは大きな魚を両手で抱えて大喜びしている瞬間など殆どなく、大体はあの後ろ姿のような感じなのに、何故かその大半は写真には残っておらず、経験した者だけがわかる味わいがあるというのです。
確かに普段の釣りでは、些細な出来事でも記録しようと意識をしていない限り、釣った魚を大きく見せようと目一杯腕を伸ばした写真ばかりが増えてゆくというものでしょう。
“人は意識しててもなかなか成長できないけれど、時に偶然に何かに気がつく。”
名言だと思います。
釣りはひとりでも充分に完結し得る趣味ではありますが、時として気の許せる誰かと釣行を共にすることで、自然体の自分の写真を通して今まで見つけられなかった自分自身を発見することにつながるのかもしれません。
それにしても、YouTubeでトラウトフィッシングを主題としたチャンネルは、動画のクオリティも高く素敵な動画を投稿されている方がたくさんいらっしゃるにも関わらず、管理釣り場の動画を除いて何故か軒並み再生回数も登録者数も伸び悩んでいるように見受けられるんですよね。
やはり一部界隈で囁かれているように、トラウトの釣りはオワコンなのでしょうか。
これほどまでに艶麗かつ野性味溢れる魚と出逢える釣りは他になかなかないと思うのですが。
釣り人口が減るということは魚たちにとってプラスに作用する面が多いのでしょうが、愛好家の端くれとしてほんの僅かだけですが悩ましくもあります。