釣れない才能。

あなたの周囲には何処へ行っても何を試しても、なかなか魚が釣れない人がいるでしょうか。

 

時間とお金をかけて遠征に出掛けていっても、手間暇かけて苦労して工夫を凝らしても釣果に恵まれることが少ない、釣れない才能とでも呼ぶべき何かお持ちの方が世の釣師の中には稀にいらっしゃるようです。

しかし、その人に技術がないのかというと決してそのようなことはないと思います。

むしろ他人よりも入念に準備や下調べをされているようなのですから、全くもって不思議なものです。

霧の大島

私の知人にも、そのような方がいらっしゃいます。

此度も例に漏れず、寒風吹き荒ぶ晩秋の屈斜路湖にて苦労された様子とのこと。

この釣れない才能を話の種にしていたところ、Fさんがひとつの結論を出してくれました。

それはその人が魚を釣るということよりも、その過程に価値を見出しているようだということです。

釣りの醍醐味は結果ではなく過程。

過程とは持ってゆく道具を吟味することであったり、時には廃盤になったルアーを僻地の釣具店から探し出してくることでもあり、マイボートのカスタマイズに精を出すことであったりもするでしょう。

基本的には独りで釣りに行くことを好み、北海道のトラウトフィッシングを愛する釣り人らしさを確かに供えているOさん。

昨年ご一緒した際には朱鞠内のレークハウスでビールを片手に語りながら、時折見せる柔和な笑みが印象的でした。

単独釣行をしていると、折角魚が釣れてもなかなか自身と一緒に写した写真を撮ることができません。

以前、偶然居合わせたイトウ釣りの名手であるMさんが、50センチくらいのイトウを持ったOさんの写真を撮影してあげたといいます。

するとそれが大変嬉しかったようで、翌年にはその写真が年賀状へと姿を変えて送られてきたそうです。

そんなどこか可愛いらしい一面について聞かされたことを思い出しながら、こうゆうのはボート釣りが好きな人には共通する特徴なのだろうかと、私はふと職場で無造作に置かれているぺんてる社の青いサインペンに目をやっていたのでした。

もし適当に投げたルアーで1メートルの魚が釣れてしまったとしたら、私なら手放しで喜んでしまうでしょう。

しかし、適当に投げて偶然「釣れてしまった」1メートルの魚と、自身が試行錯誤して「釣った」50センチの魚を比較して、大きな魚のほうが価値があるなどと誰が言い切れるでしょうか。

一匹の価値を決めるのは釣った本人なのですから、それで幸せならば釣りの形態としてはある種の芸術の域に昇華しているとも考えられるわけです。

むしろただ漫然と釣り続け、もっと大きい魚をと際限なく欲望を増長させる釣り人よりも、得られる幸福度は高いはずです。

 

ですからあなたがもし、ただならぬ釣れない才能の持ち主と出会っても、安直な同情などせずに自分とは違う矜持を尊重し、素直に敬意を表するべきなのかもしれません。

そうして魚を釣り上げた後、彼らはその過程を思い返して余韻に浸るのだと思います。

きっとその時ほど、「一匹は一匹だ」という言葉の重みを噛み締める瞬間はないことでしょう。