釣りにはさまざまなジンクスや定説があるが、朱鞠内湖では「最初に渡船を降りた場所が釣れる」と、まことしやかに囁かれているものがある。
これは、数々の苦難とともに、私が身をもって証明してしまった事実である。
二〇一九年の春、珍しく目ぼしいポイントにはすべて釣り人が入っていた朱鞠内湖で、漁協の方の薦めもあり、我々は藤原島に渡ることにした。
藤原島は、朱鞠内湖の中でも最大級の島である。弁天島との間には、かつてこの地にあった河川の本流が流れていたらしい。
今にして思えば、やめておいたほうが良かったのであるが、渡船から見た気になるポイントがあったこともあり、私はこの島を一周してみることに決めた。
FさんとMさんが各々で釣りを始めるなか、目指すポイントに辿り着くべく、私は彼らを横目に早々に移動を開始したのだった。
最初の難関は、最奥部に落葉の腐敗したデトリタスが堆積したワンドである。
体重をかけると、ウェーダーを履いた足がずぶりずぶりと沈んでいく。
が、結果として、ここは大きな苦労をすることもなく踏破することができた。
だがこの後、移動のショートカットを試みたのが、最初の過ちだった。
先程のワンドの最奥部に雪代水が流れた跡があり、獣道の様相を呈しているため、これに沿って斜面を登ることで、移動距離を短縮できると目論んだのである。
ところが、いざ登り始めてみると、雪代水が涸れたのはだいぶ以前のことのようで、繁茂した草が流跡を覆ってしまっている。
しかし、戻ろうにも既に結構な距離を進んでしまったので、今さら引き返す気にもなれない。
絡み合う蔓やクマザサを掻い潜り、ようやく岬の反対側に出られたものの、しかしそれは更なる苦難のはじまりであった。
藤原島を周回する途中、私が遭った憂き目の代表的なものを振り返ってみようと思う。
残雪のある斜面で滑って盛大に転ぶ。
急斜面の移動で咄嗟に掴んだのは、棘だらけのハマナスの木。
同じ木を跨ぐ際にも再び滑り、ウェーダー越しに棘が刺さる。
途中、目ぼしいポイントではキャストを繰り返したものの、全く反応なし。
挙句の果てに、まるで城壁のような湖岸の崖を、ロッドを片手に這うように進む羽目に陥った。
おまけに、足元の水深は深く、落水すれば足が着かずに溺れる危険があるだろう。
こうなると、もはや釣りをしているのか、命懸けで登山をしているのか、自分でも分からない。
そんな状況を嘲笑うかのように、足元で大きなアメマスが一度だけ派手なライズを残して泳ぎ去っていった。
眼前にワンドや岬が現れる度に、「あそこを周れば、ようやくこの島を一周だ」と安堵し、そして期待を裏切られる絶望感を何度味わっただろう。
岬を周り込むと、すぐにまた次の岬が現れる。
今にして思えば、よくロッドを折ったり、ウェーダーに穴を空けたりしなかったものだと思う。
結局、島を一周するのに2、3時間はかかってしまった。
一緒に渡ってきた二人は、まだ元の場所で釣りをしていた。
しかも、休憩がてら電話を始めたFさんの前で釣りを再開すると、最初に渡船を降りたあたりで、あっさりとイトウが釣れてしまったのだ。
これまでの苦難は、完全なる徒労に終わった。
実は、前年に藤原島を一周した同行者のMさんも、全く同じ経験をしたそうだ。
何だか報われない話ではあるのだが、考えてみれば藤原島以外の場所でも、最初の上陸ポイントで良く釣れることが、これまでも少なくなかった。
朱鞠内湖では、「渡船を降りた最初の場所が釣れる」という噂は、どうやら間違いではないようである。