沖縄の妙技スルルー釣り

世界には数多の釣りがあり、原始的なものから最新の道具を駆使したものまで多種多様であるが、やはり単純で古典的なものほど奥が深く、どこか気品すら感じさせ、そして面白い。

 

沖縄発祥とされるスルルー釣りも、そんな釣りのひとつだ。

仕掛け自体はフカセ釣りの元祖のようなもので、ウキを使用する場合もあるようだが、僕が体験したのはさらに原始的だ。

必要なのは餌と釣り針とハリス、あとは竿とリールのみである。

「スルルー」というから、てっきりカタクチイワシの仲間であるミズスルルという魚を餌に用いるのかと思っていた。

しかし、どうやら違うようで、沖縄ではキビナゴのことをスルルーと呼ぶらしい。

僕にスルルー釣りを教えてくれたのは、沖縄の芸大を出た高校時代の同級生だった。

修学旅行生を乗せて満席だった飛行機を降りるとすぐに、南国特有の湿った空気に出迎えられた。

良く晴れた初夏の那覇空港で彼と合流すると、車で南部にある小さなビーチへと急ぐ。

友人が駆るのは中古の黒のジムニーで、そのコロッとした小さな黒い箱のような見た目から、僕は北海道アイヌの伝承に登場する小人コロボックルとブラックボックスとを掛けて、「コロボックス号」と勝手に命名していた。

無論、旧式のジムニーらしく、乗り心地があまり良くないのは言うまでもない。

一度、大きな交差点で信号待ちの最中にオーバーヒートを起こし、煙を吹いてエンストした際にはさすがに焦った。

 

車内では、いったいどうやって取り付けたのか想像もつかないほど、複雑に絡み合った配線を有したカーステレオからFMトランスミッターを介して、今しがた友人がダウンロードした楽曲が流れている。

Alfred Beach Sandalの「Finally Summer Has Come」。

 

“虹鱒の鱗に反射する夏の太陽 七月の後ろに八月が貼り付いてるよ だからもうそんなにくよくよしないで”

 

飛行機で名古屋を発つ前の憂鬱な気分と倦怠感は、風に吹かれた霧のように消え去り、この快晴の空に相応しい爽快な気分になる。

たった一度聴いただけで、僕はこの曲が大層気に入った。

潮の干満に合わせたボートの出漕時刻に何とか間に合い、乗船名簿に住所と名前の記入を済ませると、いよいよ沖へ出る。

ここで、一風変わった面白い体験をした。

乗船するのは何の変哲もない、公園の池にあるような手漕ぎボートである。

しかし、前の船の船尾と自分達のボートの舳先が縄で舫われ、それが何艘も数珠繋ぎにされた状態で、先頭のモーターボートに沖まで引っ張って行ってもらうのだ。

何とも沖縄らしい、のんびりとした出航の仕方だと思った。

沖合のリーフエッジ付近に到着すると舫いを解かれ、後は各々が好みのポイントへ漕いで移動し、ロープにコンクリートブロックを結んだだけの簡易的なアンカーを打って釣りを始めだす。

よく見ると、我々のような釣り人の他にも、地元民と思われる数組がおり、顔を覗かせた岩やサンゴの上に上陸している。

潮干狩りでは貝やモズクが採れるそうで、沖縄では一般的な光景だそうだ。

さて、我々も始めようかと、地元の釣り具メーカーが販売している「タマン投げ」という名の、何だかよく分からない振り出し式の竿を準備した。

友人が使っているそれと同じ物を買ったのであるが、それがまるで物干し竿のように長い。

しかし、錘も付けずにごく軽い仕掛けで飛距離を出すのには、ある程度の長さが必要なようだった。

余談だが、このタマン竿は、数年後にウナギ釣りで活躍することとなる。

さっそく仕掛けを海に放り込むと、キビナゴは海中をゆっくりと自重で沈降していく。

友人に聞いたところでは、仕掛けにサルカンやガン玉を付けただけでも明らかに魚が釣れなくなり、釣果に歴然とした差が生じるそうだ。

ハリスは道糸に直結させている。

いかに餌に自然な動きをさせるかが重要である、ということなのだろう。

教わった通りに時折ゆっくりと竿をしゃくって、ふわーっとした誘いを入れてアタリを待つ

この釣りが面白いのは、餌のキビナゴが漂っているタナの深さによって釣れる魚種が変わり、またキビナゴが自然に沈んでいる時と誘いを入れた時でも、喰ってくる魚が違うということだ。

ミーバイ、クチナジ、ノコギリダイ、ムルー。

さまざまな魚が、南部の美しい海から顔を覗かせた。

と、友人の竿が突如大きく引き込まれ、ドラグが悲鳴をあげる。

その強烈な引きの主は、ボートから離れた海面を割って、ローリングジャンプで姿を見せた。

 

「お前はカジキか!!」

 

思わず友人が突っ込んだ相手は、大きなダツだった。

鋭い歯と長い吻をもつ巨大なサンマのような容貌で、見た目通りの獰猛な性格の魚だ。

1メートルはゆうにありそうなサンマモドキは、あっという間にナイロンリーダーをラインブレイクさせ、再び海中へと姿を消した。

全く惜しいことをしたと思う。

ダツは食べても美味しくないことで有名な魚だが、一方で実は美味であると評されている場合も散見されるのだ。

もしも釣り上げることができれば、その真偽を確かめることができたのに。

 

帰り際、ボートを降りて汀に立つと、戦前生まれという地元の古老がぽつりとつぶやいた。

 

「この辺の海も随分汚くなったな」

 

昔の海はいったいどれだけ美しかったのか、僕には想像もつかない。

この時経験したスルルー釣りの技術は、のちに始めた北海道でのトラウトフィッシングにおいても思いがけない場面で活かされ、ニジマスを狙うのに大いに役立った。

学生時代の研究生活でもつくづく感じていたが、ジャンルに限らず多くの経験をすることは、釣りでも学術研究でも成功の秘訣として共通しているらしい。

一見すると全く関係のないような知識や経験も、決して無駄にはならないのだ。

 

そういえば、スルルー釣りを教えてくれたこの友人とは、もう何年も連絡を取っておらず、すっかり疎遠になってしまっている。

近頃は北方へ焦がれるばかりであり、沖縄へ足を運ぶ機会が少なかったこともあるのかもしれない。

この話を書きながら、近いうちに電話してみようと決めた。

最先端のデジタルツールを駆使するよりも、古典的手段であるが故に会話の奥深さがあり、積もる話に花が咲くこともあるというものだろう。

当時は流行りのソーシャルネットワーキングサービスに興味を示さず、電話やメールでのやり取りを交わしていた友人を思い出して、遠い空の下で創作を続ける彼の成功を願った。