私は社会人となってから本格的に釣りを始めたのですが、きっかけは父の友人であり両親の仲人でもあるFさんから、北海道のイトウ釣りに誘われたことでした。
ルアーフィッシングを真剣に始めたときの心境を、当時の私は手記に記しています。
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学生時代には魚類の研究をしていたことから、社会に出た後に「魚と触れ合いたい欲」が再燃したこと、そして「幻の魚」と称されるイトウをこの目で見てみたかったのである。
結果は見事に惨敗であり、十一月の北海道の寒さも知らずに軽装備で挑んだため、白樺の陰で寒風を避けて凍えているような酷いあり様であった。
初めてイトウを釣ることができたのは、それから二年後。ニ〇一六年の秋だった。
それ以来、釣りの沼にどっぷりと嵌まり込んでしまい、毎年春と秋にはトラウトフィッシングのために北海道へ通うようになった。釣りの奥深さには、未だに興趣が尽きない。
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ここでは、北海道のトラウトフィッシングついて、既に釣りをされている諸兄のみならず、興味はあるがまだ始めていないという方にも、その魅力をお伝えできればと思います。
北海道トラウトフィッシングへの誘い①:北海道の自然
北海道出身の方にとってはそうでもないようですが、私のような本州の都市部で暮らしている人間にとって、北海道の自然は本州にはない雄大さを感じさせます。
周囲数キロメートルにわたって誰もいない、エゾシカと鳥の鳴き声だけが響く森の湖畔で、ひとり静かに竿を振るう。
最高の環境ではないでしょうか。
今日では北海道も開発が進み、手付かずの自然は残されていないと言われることもありますが、あまり海外を知らない私のような日本人にとっては、我が国の中では断トツの規模で自然に恵まれた地域と言えましょう。
北海道トラウトフィッシングへの誘い②:美しく魅力的な魚
周知のことではありますが、そもそもがトラウトは見た目が美しい種類が多いです。
また、同じ魚種であっても、自然環境の中で生き残った自然繁殖の魚と、養殖魚や水族館の魚では、容姿が大きく異なります。
「水族館の魚は顔が丸っこく、釣った魚は何だか厳つい顔をしている」というのがよくある例でしょうか。
管理釣り場の魚では味わえない果敢な闘志と跳躍を魅せる紅頬のニジマス、傷ひとつない銀鱗のサクラマスや、薄紅色の鰭が大きくピンと張って全く欠損していないイトウなどには、思わず見惚れてしまいます。
(ニジマスやブラウントラウトは在来種ではない等の問題も内包しているが、またの機会があれば別の稿で述べたい。)
北海道トラウトフィッシングへの誘い③:普段行けないからこその楽しみ
地元の人や、お金も時間も自由もある人でもない限り、北海道にしょっちゅう釣りに出掛けられるという人は、そう多くはないでしょう。
しかし、そのほうが楽しみとしては永く継続すると思うのです。
私のように道外在住の人間にとっては、時間・距離・金銭的な制約があるため、多くても年数回程度の釣行が一般的となるはずです。
そうなると、釣りに行けない期間は、早く北海道へ釣りに行きたくて、次回の釣行が楽しみで仕方がなくなります。
そして、実際に行った時の嬉しさや喜びは、大変大きなものとなるはずです。
それは日々を生きる原動力にもなると思います。
実際に、私が知り合った方々の中にも、飛行機を乗り継いで遠く九州から来られていた方や、「この景色の中で釣りをするために、今年一年間頑張ってきたんだ」とおっしゃっていた方もいました。
北海道在住の方が羨ましく感じる時も多いのですが、「毎日行けたら、きっとこの感動も薄れちゃうんだろうなぁ」と、自分を納得させる理由にしているのは、私だけでしょうか。
また、私には年の離れた釣り仲間のおじさん・・・
いえ、素敵な紳士諸兄がおりますので、年に数回は北海道で釣りをして、共に食事をしながら語らうのが、何事にも代えがたい機会であったりするのです。
北海道トラウトフィッシングへの誘い④:誰も入り込めない至高の孤独
釣り場の特性にもよりますが、恵まれた自然環境の場所である場合、誰にも入り込まれない至高の孤独を手に入れることができます。
駐車場や渡船では結構な人数の釣り人がいても、広大な釣り場に散ってしまえば、人の姿はおろか声さえ聞こえなくなってしまいます。
日常では得難い静謐な孤独の中で、物思いに耽りながらリールを巻くのもまた一興ではないでしょうか。
最近ふと考えたのが、ゲームフィッシングのような釣りは、極めるほどに孤独になるのかもしれないということです。
「釣り師は心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼らはそれを知らないでいる。」
これは作家の林房雄が記した言葉らしいのですが、北海道でトラウトフィッシングをしている人は、どうもその傾向が強いような気がしてなりません。
ただし、私は釣りをしている時は孤独でいるのが好きですが、気の合う仲間がいて、もし釣れたことを報告したら一緒に喜んでくれたり、バラしたことを悔しがってくれることは、とても楽しいと思っています。
夜、晩餐を囲んでその日一日の釣りを振り返り、乾杯をしながら会話に花を咲かせるのは、とても幸せな時間でもあります。
実際に魚と対峙するのは自分一人ですが、そこに至るまでの過程や、喜びを噛み締めるひと時まで、必ずしも独りが良いとは限らないのですから。
みなさんは如何でありましょうか。